昭和42年07月05日 夜の御理解
御理解に「おかげは受け得、受け勝ち」と仰る、そのみ教えの芯とでも申しますか、受け勝ちとは、受け得とはこういう様なことぞと云うことの御理解頂きましたんですけれども、初めてそういう、ははぁ受け得受け勝ちとはそういう様なことだなあと云うことを感じたんですが。今日丁度お昼私が座るちょっと前に、あの福岡の高橋さんのお母さんがあちらの娘さんの柴田さんと。
それから久留米の すし?かつさんを一緒に同道で参拝になりましたんですけれども、その色々お届けをされてから、その帰りがけにでしたが、あるもうこれは七、八年にもなるでしょうか、あることでお金を随分引っかかってあるんですね、もう相当の大金です。それがあの又最近中に立って下さる方があって、ま、おかげになるかも知れんと云う様な感じになっているわけなんです。
その事のお願い、この前もしてございましたんですけれど、今日もそのお願いのことについてですね、どうぞ、そのいわば集金のおかげを頂かせて頂くと云うことの為に、中に立って居る人の心の上にも、又は先方の方にもお繰合わせを頂きますようにと云う、そのお願いを致しますですね。ところが今日の高橋さんのお願いがですね、先生取って下さいて、でなかったら神様上げられませんからと、こういう事でした。
もうそんときですね、今私がこういう風に申しますですけれども、その時のもうお母さんの言われるその言葉の内容と云うものはですね。もう実に何かそれこそ中に立って居られる金光大神が「承知した、承知した」と言うて下さる様な感じでしたね。これは私どもまあ商売させて頂いて居た時代に、それはそこをこぎれば向こうも、まあそれだけは負けられんと云った場合があるんですね。
もうこちらは分かってるんです。ね、というてこちらも負けて貰わねばならんのです。そこでまあその中づみの、中づみを取って、百円のものなら五十円ところで、向こうは負けられんと云うて居ってもです、ね、よしならもうこれで手を打とうと、例えば云う様なことをですね、ある金額をこちらから出して、ね、これで手を打とうと言うと、負けられんと言よるとでもです。
もうそう一つの事の勢いと云うですかね、でもこれでもう?はいらんと、これで手を打とうと、ならしょう無かたいと云うて手打ちになるんですよ。そういう様なものがですね、やはり私どもと神様との中にもあるように思うですね。もうこの辺の一つの呼吸です。ですから、ね、そこに私はあのその先生取って下さいと云うだけではなくて、そのいわゆる心の中に取って頂いたらもう上げますから。
ということのすきっとしたものがあるんですね。そういう様なものが私はあのま、実意丁寧にも匹敵する様なその様なものでなんか清めて下さる様なものを感じたんですですけれどね。今日やはり善導寺からある商売人方が参ってまいりました。「もう先生商売を止めようと思います、あれやこれやら、考えて見るとずうっと赤字ばっかり、しかもこれくらいの借金なんですよ」と。
「でもうここで一つもう段々 ふかうちいるばかりじゃから、もう今日は先生のご神意を頂いてから、もう腹を決めて止めるなら止めようと云う風に思います」と云うお届けがあったんです。なら私があの〇〇さんあなたそげなこと言わんで、借金が重荷になっとるけんあなたが次の手を打てんとたい。借金ば神様に預けなさい。ちいう、ね、いわば借金、ね、借金は神様のものと、ね、
云う気持ちになりなさい、目の玉ぐるぐるしてからその「先生そげなこっでよかでっしょうか」もうそして楽になるでしょうが。楽になるから次の手が打てるとですよ。幾ら幾らの借金があると云う頭が重い、心が暗い、これではおかげの受けようがない。そんならそげなふうにしましょうと言うてまあ今日帰られたら、昼その丁度 ?の前に 中村さんが出てきとりました、合楽食堂の。
ここへ出てきてからですもん「先生さっきん人の御理解頂きよってから身がすうっとしましたよ。借金がどうもここに引っかかってから」、たまらん借金がある。「ほんに先生、神様に持って貰えばよかっですね」問題はそれなんです。氏子がね、氏子が心配すると神様は心配せんと仰る。また心配事をお願いに来ておってからまたそのお願いをまた持って帰る氏子があるとも仰ってある。
これじゃあおかげにならん。心配をお届けに来たんだからここへ置いときゃいいんじゃ。それを又持って帰る。ずらあっと御神前に心配事を並べておいてから、どさっち云うごと置いといてから、して帰りに又それをどっこいっしょとかろうて帰る様なことをする。それじゃあおかげのいわゆる神の働き場がなくなると仰る。そういう所からこれはもう深い一つの理があると思うんです。
だから理を追求すりゃ成る程そういう状態ならおかげを受けられると云う理があるんです。ね、お徳でお取次なさった四神様のその言葉の中にです、成る程お徳でお取次なさったんだなあと云うことを感じます。氏子が心配すりゃ神は心配せんで済むとこう仰る。折角の心配持って来ておるのを又持って帰るとこう仰る。ね、そこにあのおかげは受け得、受け勝ちと云う様なおかげもですね。
その内容の中にあるなんて云うような事を、今朝の御理解以後に又そのお取次させて頂いてから、ま、感じたんですね。ほんとに神様にお預けの出来れると云うこと。ね、勿論そこには、なら集金が集まった。それはなら神様にお預けして居るものですから、いわゆる勿論これは私のものと云った様なことではない。私はあの今日はそれを何人の方にも申したんですけれども、私がここに例えばお金を出します場合ですね。
例えば、あのいらん事に、もし支払いをすると致しましょうか、時にはあの神様が払いなさった時、足らんとこもあるけんで、こんな気持ちがしますですね。これは私がいわばいい加減になら、お許しを頂かんなりに、例えば払うと致しましょう。そん時にですね、神様の当てが違いなさる。神様が払いなさる時に足りなさらんと困りなさるから、と言う様な気持ちなんです。ね、
ですからとてもその御神意に、ま適わぬだろうと云う様な金やら出せる筈がありません。だからここではきちっとしたおかげになって来るんだと私は思うです。神様の事をそれだけ思うとる。神様が払いなさっとに困りなさろうごとある。ね、そういう様なものがです内容として出来てきて、例えば今日私が申します借金も神様のものとしてこの頂けれると云うのは、厳密に言えばそういう事でございましょうけれども。
そういう難しい事は分からんにしてもです、そん時の言葉の勢いと云うですか、先生どうぞ先方がお繰合わせ頂かれますようにと云った様なものではなくてです、成る程そういう事も実意な願い方なんです。お取次のあり方なんですけれども一つのあり方としてですたい、先生取って下さいとこう言うこと。と云うその生き方、そこまで私に任するなら私が取ってやろうと、そん代わり私に任せんのと云う訳なんです。
そういう様なそのないようが、その中にひびきがあるんです。ね、私がある方にお取次させて頂いておる。借金な神様のものとして頂きなさい。それをうしろで聞いておった、中村さんが、はぁ、ほんとにあげな御理解いただいてから、私ん方がすっきりした、おかげを頂いたとこういうそれなんです。今私借金がこん中に、もやもやしておった。頭の中に何時もあった。
それをほんにそうたい神様へ神様へ、いわゆる借主を神様にもう切り替える。そこに頭も楽になりゃ、心の中にもなんとはなしにさばさばしたものが出来て来る。ね、いっぱい持っておるから次の手が出せんのである。ね、心配を一生懸命して居るから神様が心配をして下さる場を無くしてしまうのである。心配は神様にして貰わにゃいかん。これなんかは確かに受け得、受け勝ちのおかげの頂けれるやはり受け物だと思うですね。
どうぞ。